読後独断

2009年1月15日 (木)

石川文洋『四国八十八ヶ所』を読む

この本を読んだ理由は、お遍路さんに関心があったわけではなく、筆者が心筋梗塞に倒れても、それにめげずに、四国八十八ヶ所を完結させたところ。

 すぐにリハビリを始めた点が凄い。

 1日4キロの歩行。1600キロカロリーの摂取というのも感心した。

 みずから課題を設定して、効率よく達成しようとする人は、心臓病になり易いとも言われているが、また病気になるとキチンと対応するとも言われている。

 遍路の結果、44%の機能が62%になったことも驚きである。

 「壊死した心筋は治らないが、休んでいたほかの筋肉が働いているようです。」と述べているが、将来はヨーロッパ縦断徒歩の旅をしたいというのも、実現を期待したい。

 

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2009年1月 5日 (月)

「現代の畸人」リスト2 中島らも

 過日、駅前の古書店で中島らもの『牢屋でやせるダイエット』(青春文庫)を発見。懐かしさのあまり購入。

 中島らもは、かれの高校から大学への進学の情況になんとなく共感、一時面白くて濫読したことがあったが、飽きてそのまま。しばらくして、死亡記事が出た。その後ご無沙汰。

 読んでみると面白く、独特の気分を持った知性が感じられた。

 『教養とは、一人で時間を潰すことの出来る能力である。』

 という中島らもの言葉に再び痺れて、どんな感じの最後だったのかを知るために、2~3冊関連の本を読んでみた。

 本人が書いた『異人伝』は、割合客観的な視点から書いている自伝的随筆。ちょっと面白味に欠ける。自分のことを異人ととらえているが、偉人ではないという捻りか。ただ、異人(まれびと)かというと生き方そのものはそれほどでもないような気もする。しかし、天才であることは間違いない。そして破滅型の多才な人物であろう。

 鈴木創士の『烈伝』も史記の列伝のもじりだが、生き方が壮烈であると言いたいのであろう。

 あまり、中島らも個人を追及しないで、なにかあの時代の関西の青春とか芸術とかの同時代史になっている。

 奥さんの書いた『らも』は、さすがに生身の中島らもを家族関係も含めてよくとらえていると思う。今後、中島らもに関心を持つ人がいれば、この本から入るのだろう。まず読んでいて面白い。

 中島らもも当方の中では畸人の一人である。

 そういえば『教養とは、一人で時間を潰すことの出来る能力である。』という言葉にふさわしい畸人候補がいる。

 佐藤優の『獄中記』にぴったりの言葉である。

 

 

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2009年1月 3日 (土)

世の移り変わり

 大隈和雄の『愚管抄を読む』を読んでいたら、北畠親房の『神皇正統記』で親房は、世の移り変わりの中には神の力をもってしても如何ともしがたい動きがあることを認める、とある。

 どうも、この世のなかは、神かでなければ人が動かしていると、考えがちだが、この指摘には新鮮なものを感じた。とくに、人とシステムが万能であると考えがちな現代では。

 

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2008年12月 4日 (木)

内澤旬子『センセイの書斎』

 内澤旬子著『センセイの書斎』に目を通す。

 かつて、古書店めぐりでお世話になった池谷伊佐夫著『東京古書店グラフィティ』(東京書館)に絵の構図や、構成が似ている。

 古書店を書斎に変化させた感じ。印象に残った「センセイ」の書斎は、小嵐九八郎、佐高信の乱雑系と曽根博義の巨大系。

 ちょっと考えると他人の書斎などどうでも良いことだが、この本の狙いは好奇心の充足かな。

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2008年12月 1日 (月)

夢野久作『近世快人伝』を読む

 須原一秀が『自死という生き方』のなかで、もう一度読みたい本として夢野久作『近世快人伝』をあげていたので早速読んでみる。

 予想に反して、九州の痛快無比な快男児についてのほら話に近い話。この本がどこで須原一秀と繋がるのかは不明だが、命を惜しまないという点に着目するならわかるような気がする。

 しかし、頭山満のサナダムシの話、篠崎仁三郎のふぐの毒を喰らう話は、さすがに寒気がした。

 杉山茂丸の「其日庵」の由来は、当方と同じ「其の日暮らし」ということらしい。この人は、夢野久作の父親である。そういえば、かって中公文庫で『児玉大将伝』というのを読んだことがある。

 頭山満については、名前だけ知っているという状態なので、その政治的役割や評価についてはわからないが、夢野久作の描く頭山満の態度は、妙に、妙好人を思わせる。というより夢野久作は禅的なものを感じたのかもしれない。

 夢野久作のことについてよくわからないので、鶴見俊輔の『夢野久作~迷宮の住人』という本を読んでみる。

 堅実なところのある作家というのが鶴見俊輔を通してみた当方の感想だが、その小説を全く読んでいないので、なんとも言えない。

 葦書房の『夢野久作著作集』月報5 九州大学の花田俊典教授の「〈北〉の賢治、〈南〉の久作」という解説が載っているが、芥川龍之介から堀辰雄につなぐのではなく、宮沢賢治、夢野久作へトライアングルにつなぐ指摘がある。マージナルな発想だが、面白いかもしれない。

 夢野久作、ちょっと研究してみたい作家かな。

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2008年11月25日 (火)

須原一秀『自死という生き方』 を読む

 須原一秀の本は、3冊ほど以前に読んだ。題のつけ方が面白いうえに、はっとさせられる指摘がある。

 この本は、著者最後の著作。この本を書いて、自殺した。それにしては、人生を肯定的に捉えているし、論調も明るい。結構楽しめる分析による鋭い指摘もあるし、考えされることもある。

 著者の主張は、今後じっくり考えるとして、ちょっとしたメモ。

 ○ 伊丹十三 「たのしいうち死にたい」

 ○ 「人生の極み」というターム

 ○ キューブラー・ロスの理論とロスが「体の声」を聞かなかったことの失敗

 ○ ヌーランド『人間らしい生き方』(河出文庫)

 ○「私は宝籤を買って人生の逆転を狙うのは正しい人生のおくり方ではないと思う。と同時に、希少現象の「老衰死」を期待しながら人生を送るのも間違っていると思う。」

 ○「青年と壮年の読者に言いたい。こだわりを捨ててちょっと工夫すれば人生はなかなか良いものである。定年後も老後も、工夫しだいでなかなかのものである。そして、運と健康と工夫によって、その期間は相当に長いものになるかもしれない。しかし、その先は誰にも保証できない。」(著者は、その時はこの著書を参考にして欲しいと言っている。)

 ○虚無主義にも厭世主義にも関係ない「人生を肯定する自死」

 ○「罰系優位システム」をゆるめないと大きな喜びも楽しみも保証されない。

 最後は『雑感』で終わっている。

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2008年11月14日 (金)

山本周五郎の『八百長』観

 山本周五郎の『雨のみちのく・独居のたのしみ』というエッセイ集に、いまなにかと話題の八百長についての1章がある。

 その題も『八百長について』ということだが、成熟した大人の八百長観が書かれている。

 「私は八百長を礼賛するものではありません。そんなことはないほうがよりよいのはたしかであるが、勝負事はいわば人生のぜいたくであって、生産とか、建設とか、開拓などという活動とは対照的な、優雅なあそびではありませんか。」

 さすがに山本周五郎のゆとりのある見方がある。

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2008年11月 5日 (水)

高橋睦郎『あそぶ日本』を読む

 「遊びの究極は何だろうか。純粋な意味での学問ではないだろうか?」

 著者のこの言葉に共感した。

 このあと、宣長と秋成の対決に触れるが、「当時の国学の滔滔たる流れの中で見れば、宣長に対する秋成のありようは、巨象に吠えかかる痩犬のようにみえたであろう。しかし、二百年を経た現在からの遠近法で見れば、かえって巨象は虚像、痩犬は痩犬のまま潔い実像と見えなくもない。」と述べている。

 秋成の「血かたびら」の一篇によって「物まなびの遊びとしての無償性は、辛うじて保証されるのではあるまいか。」と、秋成贔屓にはうれしい言葉もある。

 楽しく読める一冊である。

 

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2008年11月 3日 (月)

戸田茂睡とは その2

 戸田茂睡について森銑三は、次のように言っている。

「隠逸伝中の人々には、前期の元政上人、後期の売茶翁その他、さすがに京都には、京都らしい人々がある。江戸はというと、隠家茂睡など、自ら隠者を売物としている形で、そこに臭みの感じられるものがあっ、私などにはありがたくない。」(森銑三著作集第12巻『人物雑稿』)

 『御当代記』のあの詳細な人事記録を読めば、そう思うだろうな。

 

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2008年10月31日 (金)

ガルブレイス『大恐慌』を読む

 まさか三度、この本を読むとは思わなかった。今回が、一番骨身に沁みて、読んだような気がする。

 ガルブレイスの基本的姿勢は、「投機の結果は、暴落である」というところにあるのではないか。
 暴落だけが問題なのではなく、その後の大不況が、大きな影を落とす。

 1929年は、きっかけとなったと言われているのは『投資信託』であり、今回はサブノートプライムローンである。
 しかし、その裏にある本当の原因は、投機であり、投機を可能にする資金であり、人びとの意識であり、それを歓迎する制度である。
 
 ガルブレイスは、1929年から始ま大不況を経験した人びとは、当分投機に手を出すことはないであろうと言っているように思えるが、約100年後に今回の暴落は起きた。

 自由の名の下に、規制緩和を図り、市場が解決するとして、投機を容認し、『金融工学』とういう意味不明の手法により、不良債券ウィルスを世界に撒いてしまった。
 
 結果の暴落と公的資金の導入。ガルブレイスだったら、どう分析するのだろう。
 人間は忘れる動物であり、過去より進歩していると思っている楽天家である。

 それにしてもこの本には懐かしい「サウスシーバブル」、バジェット『ロンバート街 』ロンドンの金融市場も登場する。

 経済史に輝くであろう暴落にであったことは、大いなる不幸であるが、一面経済学を学ぶものにとっては幸せでもある。

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