肖像画と似絵

2008年9月 7日 (日)

死絵

 千葉市美術館で行われた講演会で学芸員の伊藤紫織氏から『死絵』の話を聞く。

 死絵もどうやら似絵と概念が近似するらしい。しかし、役者絵という捉えかたとなると、舞台上の装いや化粧をしているということで、似絵とか肖像画とか逸脱するらしい。

 たしかに歌舞伎の扮装をした役者を描いた絵を似絵とは言いにくい。

 絵の芸術性は薄いが、集めて分類するといろいろな類型がある。比較し、衣装などを分析すれば、それなりの面白さはあるのではないか。

 いずれにせよ、日本には堂々たる肖像画を飾る習慣が、為政者にないので、肖像画という範疇を確立するのは、大変ではないか。

 台湾の故宮博物院で、堂々たる宋の太宗の肖像画を見たことがあるが、東照大権現の架軸となるとややさびしく、これも肖像画といえるのか、ということになる。

 一度、新しい視点から江戸時代までの絵を再整理する必要はある。

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2008年2月27日 (水)

一休像と酬恩庵訪問

 宮島新一著『肖像画』を読んでいたら、『一休像』という節があって、そこに興味を引かれる
記述があった。
 
 「円相像のなかでは森侍者を描いた図の上に、一休の円相像が加えられた正木美術館の所蔵になる一幅が注目される。」

 残念ながら、図が載っていない。また、丸岡家所蔵の「一休像」も奇怪なものでいたく興味を引かれた。烏帽子道服姿で竹杖にすがって立っている。

 記述の中に、酬恩庵ことも出てくるので、昨年の秋訪問した時のことを思い出した。

  新田辺からJR京田辺へ徒歩で行き、ここで通称一休寺「酬恩庵」への道をたずねる。交通量の多いうえに歩道のない道を15分ほど行くと、のんびりした見晴らしの良い参道へ。

 しかし、途中でバイパス道路の工事中。このゆったりとした山並みの見える道もいずれは終了に。

 小さな山門を潜ると楓の並木。紅葉の季節はさぞ美しいことであろう。このあたりの情景は後日読んだ水上勉の『一休を歩く』に上手に書かれている。

 まずは一休禅師の御廟所へ参詣。禅師は、応仁の乱の戦乱を逃れて、京都に山城、宇治と山城の境の辺りにある薪村(田辺)の酬恩庵に避難をする。水上勉によれば、一休が例の盲目の美女、森待者と過ごしたという。最後はここで示寂された。

 禅師は後小松天皇の皇子といわれているので宮内庁の管理となっており、村田珠光の作とされている枯山水の庭園は中に入ることは出来ない。

 次いで、方丈へ。前田利常の寄進で狩野探幽の襖絵がある。朝早くてだれもいないので、階に腰をかけゆっくりと前庭を鑑賞。

 正面に虎丘庵の塀があり、その向こうにはみどりの山が迫る。空はあくまでも澄んでおり、朝日が東からさしてくる。人間、閑居するならやはりこういう場所としみじみ思う。

 再び、襖絵をみると、画題に陶淵明、林靖和である。菊を愛し、梅を愛でる。有名な北庭を見る。本当に小さな庭。この小ささのなかに深山幽谷を表わそうとするこころざしは感じる。しばし眺めそれから一部をスケッチする。

 束の間の風雅に遊び、宝物殿へ。印象に残ったものは、幕府との軋轢に悩み、修学院離宮を造った後水尾天皇が道元禅師の歌を書いた宸翰。

    「世の中はなににたとえん水鳥の
          嘴(はし)ふる露に宿る月影」 

 開山堂、本堂をめぐり、一休寺納豆なるものを食べるのを忘れ、駅に向う。向かいにゆったりとした山並みが見える。

 正木美術館のホームページを見ると、作品がでていた。美術館では 「一休と森女」というようだ。

 今年の4月には40周年記念の展覧会を開くらしい。

 

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2008年2月11日 (月)

「源頼朝像のモデルは、やっぱり源頼朝像」を読む

 宮島新一山形大学教授が「神護寺」(平成19年淡交社)という本のなかで、「源頼朝像のモデルは、やっぱり源頼朝像」という論文を書いている。

 この論文のポイントは、三幅の肖像画の制作年代の判定である。
 神護寺の画像は、「似絵」のジャンルに含まれる。とすればこの系統同士を比較して年代判定をするのが正しい手続きである。

 ①同年代俗人肖像画との比較の必要性
 ②サイズ~南北朝時代にはこのサイズは少ない
 ③南北朝時代の特徴である「人格が露わになる」ということになっていない。

 宮島教授の判断は頼朝像は後高倉院と北白川院の神護寺の大々的な復興にともなって制作された、としている。

 藤原光能については、「文覚と関係が有り、光能の子の光俊は後高倉院の近臣であった。」という五味文彦教授の説を引いている。また、平知盛については、「その妻は後高倉院を育て、仕えている」という角田文衛氏の説を紹介している。

 方法論的には、宮島教授のいう方法が正統的で正しいように思われる。教授の勧める称名寺の国宝「金沢四将像」(鎌倉時代中期~後期)、和歌山、満願寺、根来寺の「鳥羽天皇像」との前後関係の比較は、やるだけの価値があると思う。

 同じ本のなかにある、久保智康京都国立博物館工芸室長の「山林密教寺院、神護寺の文化財」という論文でも三幅の肖像画について触れており、「神護寺略記」は古文献を詳細に引用し、各堂舎の本尊・什器についての記述も現存寺宝とおおむね合致し撰述姿勢は信頼度が高い、とされている。

 これまた説得力のある指摘である。
 これらの指摘を考えると、もう一度、前後関係を比較しながら三幅の年代の判定の作業をすること。古代、中世の肖像画について「概念」をもう一度見直すこと。

 特に、「似絵」というのはどこか混乱をもたらすとことがある。とくに描く目的がよくわからない。はっきりとした説明も不足している。

 そしてもう一度「神護寺略記」に登場する、後白河法皇、源頼朝、平重盛、藤原光能、平業房とその関係者(宮島教授のいう平知盛はちょっとよくわからないが)を研究する必要があるのではないかと思う。

 とりあえず、光能の子の藤原光俊と平業房、その妻高階栄子の興味をひかれる。

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2008年1月15日 (火)

伝頼朝像周辺

 米倉説が正しとするといままで今まで頼朝だったのは何故か。直接的な理由は「神護寺略記」に基ずくものであろうが、明治時代に確定したものとすれば、その時代背景もあるのではないか。
 足利尊氏が逆賊とされていた時代に、足利直義とするより、源頼朝としたほうが都合がよかったのかもしれない。

 おかげで、こちらも幼い時から、頼朝といえば「伝頼朝像」を思い出す。それにしては義経像が貧弱だが、政敵になったのでしかたがないとか、とかは考えていた。
 
 いま伝頼朝像はどうなっているのか、と思って小、中、高の教科書を見てみると、概ね「伝頼朝像」となり、鎌倉時代の冒頭に載っている。イメージの力は強いので、今後も伝播していくことであろう。

 面白いのは2001年発行の「日本の歴史 第09巻 頼朝の天下草創」(講談社)で カバーのしたの表紙は「伝頼朝像」が単色で刷られ、口絵のもカラーで採用され、解説には『「貴種」の面影を伝える頼朝像」とある。

 体験でいえば、尾道の浄土寺で特別拝観して、「足利尊氏像」を見たときは、薄暗いなかで、どこかで見たような絵だと感じた。
 最近は、木更津の神社で頼朝『お手植えの蘇鉄』というのを見たが、そのステンレスの
解説版には「頼朝像」が写真で刷り込まれていた。
 このように、全国的に「伝頼朝像」が広まっているのでこれを修正するのは大変でだろう。

 ただ、「伝頼朝像」は直義かといえば、反論もあるらしく辻惟雄『日本美術の歴史』によれれば、「13世紀を下るもではない」とあり、「わたしは誰?」状態は今後も続くようである。
 

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2008年1月11日 (金)

伝藤原光能像の周辺

 平安時代には、肖像画は作られなかった。これは、肖像画が呪詛の対象となるのを恐れたためだともいわれている。では何故、伝藤原光能のような肖像画が描かれるようになったのか。

その理由について辻惟雄『日本美術の歴史』では、「しかし院政期に入って肖像制作は活発化した。その理由はよくわからないにせよ、人間への関心の強まった時代の動向と無関係ではあるまい。」となっている。これが現在の通説であろう。

 ところで面白いのは、応保2年(1162)6月に源資賢らの院近臣が、賀茂社で天皇の姿を絵に描いて呪詛をしたことが発覚したということがあった。
 
 院政期でも、肖像画は特別な霊的な力を持っているものと考えられたのだはないか。また、呪詛の対象になりうるものであったのではないか。

 従来説にしろ米倉説にしろ、神護寺に納められたわけであるから、肖像画に特別な霊的な力のあることを信じていたものであろう。
 しかし、それよりも何故神護寺なのか。神護寺とはなにかのほうがはるかに強い興味をひく。  

 過日、同じ国宝室で『観楓図屏風』 狩野秀頼筆(室町時代)を見たが。遠く雲間に神護寺の伽藍や,雪の愛宕社が描かれている。鈴木 広之 「絵は語る (8) 高雄観楓図屏風-狩野秀頼筆 記憶のかたち」のなかでも、神護寺の存在について解釈をされている。

 和気清麻呂、空海からはじまる神護寺はちょっと謎を秘めた寺である。

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2007年12月28日 (金)

わたしは誰だ? 伝藤原光能像

 東京国立博物館の国宝室で『伝藤原光能像』を鑑賞したあと、例月講演会へ参加する。

 講師は、米倉米迪夫 教授「神護寺の肖像画をめぐるいくつかの問題」とういうもの。

 教授の講演によれば「伝光能」像は、桜町中納言藤原成範(1135~1187)といわれていたもあるらしい。
 松平定信(1758~1829)の『集古十種』に「藤原成範」となっており、明治34年(1901)鈴木如空の修学旅行日記には「藤原成範」となっているとのこと。

 では、いつ「光能」になったのか? 米倉教授の『絵は語る4 源頼朝像』によれば

 「一方、明治年間におこなわれた調査に基づく「京都府宝物目録」(東京国立博物館)によれば、神護寺画之部に「右大将頼朝像」「内大臣重盛像」とともに「参議光能像」があげられており」とある。

 ところで藤原成範、藤原光能とは何者なのか。日本史辞典などで調べてみると次のようになっている。
 
 [藤原成範] 1135~1187(保延元~文治3)
 
 父は少納言入道信西(藤原通憲)。母は後白河天皇の乳母、従二位藤原朝子。
 平治元年(1159)平治の乱で解官され、下野国配流となる。
 翌永歴元年(1160)に許されて本位に復す。のち正二位中納言まで昇る。
 桜花を好み私宅内にたくさん植樹したことから、桜町中納言と呼ばれた。文治3年(1187)2月28日病のため出家、同年3月17日、53歳で没す。

 [藤原光能] 1132~1183(長承元~寿永2)
 
 平安後期の公卿。父は入道民部少輔従五位上藤原忠成。母は大宮亮源季忠の女。
久安2年(1146)叙爵。下野守。右中将、蔵人頭、皇太后権太夫、右兵衛督を経て
治承3年(1179)参議正四位下に叙せられた。
 寿永元年(1182)左兵衛督となり、同2年には正三位に叙せられたが、平家追討の院宣を書くにより解官、出家後同年2月28日、52歳で没す。

  光能(1132~1179)と成範とは同時代。 この二人は、ともに後白河上皇の近臣。いわゆる、「院近臣」。いま少し二人を調べてみると面白いことがわかる。

 まず成範。平治の乱が平治元年(1159)12月9日の夜に起こり、成範は信西の息子であったため、藤原信頼により流罪と成る。当日、成範は清盛の婿(婚約していた)であったので、六波羅の清盛邸に命乞いに駆け込んだが、清盛が熊野詣に出かけたあとでどうしようもなかった。
 
 治承3年(1179)11月20日、後白河上皇は清盛により鳥羽殿に幽閉される。『百錬抄』によると鳥羽殿には成範、脩範、静賢法印や女房2,3人の他は参入を認めず門戸を閉じて人を通さなかった。
 これは、院近臣として信頼が篤かったのか、清盛との関係からかという判断が必要である。

 次は光能。安治2年(1176)、この年末の除目で、蔵人頭に清盛最愛の息子とされた知盛を抑えて院近臣である光能が任命され、後白河上皇と平氏の間が変調をきたした。

 
 仮に『神護寺略記』に根拠おく従来説をもとにすれば、制作依頼者は当然、後白河法皇周辺となる。また、今回東京国立博物館に展示された実物の大きさなどから考えれば、相当の権力のあるものが制作を依頼したとおもわれる。とすれば、像主には光能が有利ということになろう。
 
 単なる推定だが、江戸時代に成範とされたのは、成範自体が光能より有名であり、またその娘が小督局としてまた有名であったためではないか。成範と清盛との関係は微妙である。とにかくこの時代に生きた人びとは複雑にして微妙な関係にあった。これも蛇足だが、光能は定家といとこ同士ということになる。

 しかし、米倉説によれば、『足利直義願文』の発見と頼朝像の詳細な検討により、従来の伝頼朝像、伝重盛像は、足利直義像、足利尊氏像、となる。しかし、願文には尊氏と直義しか出てこない。伝光能は、誰なのか。

 これは 黒田日出男教授の指摘により足利義詮という可能性が高いとされている。(『絵画史料で歴史を読む』)根拠は等持院の『足利義詮像』との比較で似ていることである。

 ただ、伝光能画像と義詮の木像が似ているいうことであり、義詮像を神護寺に納めたということの文書が存在したり、等持院のように歴代足利将軍の像が神護寺にあるという状況にれば、もっと有力なものと成るのではないかと思う。

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2007年12月16日 (日)

国宝伝藤原光能像を見る

 東京国立博物館で12月27日まで『伝藤原光能像』が国宝室で公開されている。これはアンドレマルローが絶賛した「頼朝」像、「重盛」像とともに神護寺に伝来している。像全体もさることながら、裾や畳の文様をよく見る。裾は藤の模様のように、畳は菊のようにも見えるが、十字形の芯があるので違う文様かもしれない。光能は後白河法皇近臣であり、頼朝、重盛との3点セットは、理解できるが、現在は足利尊氏、直義、義詮の3点セットで「足利義詮」とする説が優勢である。

 この肖像画がだれであるかを解明するポイントは、これらの絵が描かれた時代と貴人の顔の表現に係る分析にあるのではないかと思う。

  この項続く

 

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