東京国立博物館の国宝室で『伝藤原光能像』を鑑賞したあと、例月講演会へ参加する。
講師は、米倉米迪夫 教授「神護寺の肖像画をめぐるいくつかの問題」とういうもの。
教授の講演によれば「伝光能」像は、桜町中納言藤原成範(1135~1187)といわれていたもあるらしい。
松平定信(1758~1829)の『集古十種』に「藤原成範」となっており、明治34年(1901)鈴木如空の修学旅行日記には「藤原成範」となっているとのこと。
では、いつ「光能」になったのか? 米倉教授の『絵は語る4 源頼朝像』によれば
「一方、明治年間におこなわれた調査に基づく「京都府宝物目録」(東京国立博物館)によれば、神護寺画之部に「右大将頼朝像」「内大臣重盛像」とともに「参議光能像」があげられており」とある。
ところで藤原成範、藤原光能とは何者なのか。日本史辞典などで調べてみると次のようになっている。
[藤原成範] 1135~1187(保延元~文治3)
父は少納言入道信西(藤原通憲)。母は後白河天皇の乳母、従二位藤原朝子。
平治元年(1159)平治の乱で解官され、下野国配流となる。
翌永歴元年(1160)に許されて本位に復す。のち正二位中納言まで昇る。
桜花を好み私宅内にたくさん植樹したことから、桜町中納言と呼ばれた。文治3年(1187)2月28日病のため出家、同年3月17日、53歳で没す。
[藤原光能] 1132~1183(長承元~寿永2)
平安後期の公卿。父は入道民部少輔従五位上藤原忠成。母は大宮亮源季忠の女。
久安2年(1146)叙爵。下野守。右中将、蔵人頭、皇太后権太夫、右兵衛督を経て
治承3年(1179)参議正四位下に叙せられた。
寿永元年(1182)左兵衛督となり、同2年には正三位に叙せられたが、平家追討の院宣を書くにより解官、出家後同年2月28日、52歳で没す。
光能(1132~1179)と成範とは同時代。 この二人は、ともに後白河上皇の近臣。いわゆる、「院近臣」。いま少し二人を調べてみると面白いことがわかる。
まず成範。平治の乱が平治元年(1159)12月9日の夜に起こり、成範は信西の息子であったため、藤原信頼により流罪と成る。当日、成範は清盛の婿(婚約していた)であったので、六波羅の清盛邸に命乞いに駆け込んだが、清盛が熊野詣に出かけたあとでどうしようもなかった。
治承3年(1179)11月20日、後白河上皇は清盛により鳥羽殿に幽閉される。『百錬抄』によると鳥羽殿には成範、脩範、静賢法印や女房2,3人の他は参入を認めず門戸を閉じて人を通さなかった。
これは、院近臣として信頼が篤かったのか、清盛との関係からかという判断が必要である。
次は光能。安治2年(1176)、この年末の除目で、蔵人頭に清盛最愛の息子とされた知盛を抑えて院近臣である光能が任命され、後白河上皇と平氏の間が変調をきたした。
仮に『神護寺略記』に根拠おく従来説をもとにすれば、制作依頼者は当然、後白河法皇周辺となる。また、今回東京国立博物館に展示された実物の大きさなどから考えれば、相当の権力のあるものが制作を依頼したとおもわれる。とすれば、像主には光能が有利ということになろう。
単なる推定だが、江戸時代に成範とされたのは、成範自体が光能より有名であり、またその娘が小督局としてまた有名であったためではないか。成範と清盛との関係は微妙である。とにかくこの時代に生きた人びとは複雑にして微妙な関係にあった。これも蛇足だが、光能は定家といとこ同士ということになる。
しかし、米倉説によれば、『足利直義願文』の発見と頼朝像の詳細な検討により、従来の伝頼朝像、伝重盛像は、足利直義像、足利尊氏像、となる。しかし、願文には尊氏と直義しか出てこない。伝光能は、誰なのか。
これは 黒田日出男教授の指摘により足利義詮という可能性が高いとされている。(『絵画史料で歴史を読む』)根拠は等持院の『足利義詮像』との比較で似ていることである。
ただ、伝光能画像と義詮の木像が似ているいうことであり、義詮像を神護寺に納めたということの文書が存在したり、等持院のように歴代足利将軍の像が神護寺にあるという状況にれば、もっと有力なものと成るのではないかと思う。