文化・芸術

2009年1月 6日 (火)

『雪舟と水墨画』展

 『雪舟と水墨画』展(千葉市美術館/岡山県立美術館)へ行く。

 まずは牧谿『老子図』に敬意を表する。

 次いで、雪舟の『山水図』(倣玉澗)。この絵を見るには、そもそも玉澗について知らなければならない。俄か勉強では、南宋末から元初の画人らしい。省略画法を得意とし、微妙な陰影の変化を表現し個性的な特色をもつ作品を描いたといわれている。

 雪舟がそのとおり模写したとすると、結構粗い感じの画で、日本では好まれたものかも知れない。戸田禎佑『牧谿・玉澗』(『水墨美術大系』3という本もあるらしいので、研究する必要がある。

 だだ、重要なのは雪舟がいかなるときも、中国に学んだということであり、日本美術は東アジアのなかで考える必要がある。

 雪舟の作品といえば、「拙宗等楊」の作品も展示されている。雪舟の前身という説があるが、作品ではどうも伝わってくるものがない。

 もう1枚の雪舟の『渡唐天神図』というのもあまり面白くない図柄で、雪舟が描いたのという感じ。

 最近、山水図屏風の見かたに感じるところがあったので、雲谷等益の『楼閣山水図屏風』で試してみたところ、どうも俗な空間で行ってみたくない。

 それに比べて、鉄斎は掛け軸でも面白くて楽しそうなので喜んで行ってみたい。第一鉄斎自身が楽しんでいるのでどうにもならない。

 一方、浦上玉堂は生き方は尊敬もし共感もしているのだが、画のほうはどうにも良さがわからない。多分当方が未熟のせいだろうから、もうしばらく付き合ってみたい。

 

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2009年1月 2日 (金)

新春のMOMAT

 朝、テレビ東京で江戸の職人芸の番組を見ていたら、東京国立近代美術館工芸館(MOMAT)へ行きたくなった。どうやら今日は無料開館日らしい。

 早速、出かけることとし、竹橋駅で降りる。本館の前を歩いて行くと、ちょっと当方の趣味が変わったかな、という感慨がある。

 堀端の坂道を上り、北の丸公園に入り、旧の近衛師団の建物に入る。

 中に入ると無料のうえ、『伊佐利彦ー型染の美』という展覧会のカタログまで頂いた。

 2階に上がって、着物、漆と見て、印象に残ったのは漆で黒田辰秋『赤漆流稜文飾箱』、高野松山『牡丹木地蒔絵手箱』。

 いずれも工芸における色、「赤い波」「黒い牡丹」といった問題を考えさせられた。

 次いで『人間国宝・巨匠コーナー』。とにかく名前が凄い。

 ここで印象に残ったのは、加守田章二 『灰釉鉦鉢』、田村耕一『白泥椿文壷』。

 もう少しゆっくり鑑賞しようとしたら、どうも参賀帰りの客が増えて、辻協の『信楽大鉢 月光』について若い女性が、洗面器だのなんだの言い出したので、そうそうに帰ることとした。

 これでは本館も同様と思い、静かな北の丸公園の中でウグイスを眺め、九段に向った。

 

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2008年11月29日 (土)

『小宇宙への情熱』美浦康重版画コレクション展

 当初は、平塚市美術館の『三岸好太郎』の展覧会に行くつもりで、東海道線に乗る。三岸好太郎は、以前から愛好するところ。札幌へ行くよりはと、今まで待って天気も良いので、出かけたが、生憎人身事故で、戸塚でストップ。

 やむなく、鎌倉散歩に方針を変更。例によって、北鎌倉から散歩。円覚寺の門前の紅葉は美しい。が、大勢の人が詰め掛けている。

 では、東慶寺でもと思っていると、いつの間にかとおり過ぎてしまった。切通しを越えて、神奈川県立近代美術館鎌倉別館の前へ。ここは昔から、閑静。

 しばらく、様子を見ていたが、日和崎尊夫と長谷川潔の名前と『ランボー』の顔のポスターに惹かれ入館。 『小宇宙への情熱』美浦康重版画コレクション展を鑑賞ということになった。

 客もまばらでじっくり見ることができる。版画で人が多かったら、目も当てられない。

 大半は柄澤齊という人の作品。この人のことは全く知らない。ただ、楽しい作品、共感できる作品が多い。

 『肖像』連作に登場する人物が、当方が関心を持っている芸術家が多いのが嬉しい。

 日本人は「上田秋成」、「泉鏡花」、「葛飾北斎」とあり、上田秋成を取り上げているのに感激。

 デューラー、ランボー、ボードレール、クラナッハ、グリューネヴァルト、ゴヤ、シーレとくれば、なるほど、なるほどとなる。

 しかし、浅学にして「セーヘルス」と「メリヨン」を知らず、帰宅してから勉強。やはり、畸とか狂、貧の絡む人らしい。

  木口木版の凝縮された世界、『小宇宙』から外に出ると、穏やかな日和の鎌倉の空があった。

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2008年4月24日 (木)

『 暁斎 Kyosai』展に行く

特別展覧会/ 没後120年記念 絵画の冒険者 暁斎 Kyosai-近代へ架ける橋-

2008年4月8日 (火) ~5月11日 (日) 

 というのが正式な名称。

 ただ、京都国立博物館が河鍋暁斎を取り上げる理由がよく分らない。河鍋暁斎は、関東の人、東京の人という印象が強い。関西の方面のひとへの知名度はどうなんだろう、と思う。

 とにかく、関東の河鍋暁斎ファンは京都に新幹線をつかっていらっしゃいとうことかもしれない。

 若冲、蕭白に並べるところは、ちょっと複雑な感情が入りまじる。

 それはさておき、10年ぐらい前に蕨だったか川口の住宅街にある「川鍋暁斎記念美術館」を迷い迷い行ったことを思うと、外国人の観客も多く、河鍋暁斎に関する岩波文庫も2冊となり、今回は大展覧会と本当に評価が高くなったのだなあ、という感慨があった。

 展覧会そのものとしては、本館の展示場が、よく作品でうまったな、というのが率直な感想。引幕、板画などや下絵でカバーしている面はあったが。

 絵の感想は、美人画、正統絵師としての画が想像を遥かに超えてうまい。

 『大和美人図屏風』 <コンドル旧蔵>、『花鳥図』 東京国立博物館蔵の2点が特によかったと思う。

ギメやメトロポリタンその他海外の美術館にも色々作品があるようだから、正統派としての評価をもっと進めていくべきではないか。という感想をもった。

 相変わらずカタログは京都国立博物館特有の分厚いもの。若冲展のときは日帰りで朝一に来て、カタログを買い、詩仙堂に行って、帰り東山散歩をして、大変な思いをした。

 それからは宅配にしているが、今回は買わずに、何故か「引幕」の絵葉書を買った。

後日図書館に行ってみると、別冊太陽『河鍋暁斎~奇想の天才絵師』という雑誌が置いてあった。

「京都国立博物館、派手な表題とキャッチコピー、分厚いカタログ、別冊太陽」このパターンはいつ頃から出来ましたかね。

 展覧会の『絵画の冒険者』というのは、HPの開催概要では、どういう意味なのかよくわからない。

 別冊太陽の『奇想の天才絵師』とあるが、「模倣と努力の人」ではまずいのか。

 ささやかでつたない推測と辻惟雄著『日本美術の歴史』から考えれば、河鍋暁斎が目標としていたのは、葛飾北斎ではないのか。

北斎=画狂人→狂斎=暁斎

北斎漫画→狂斎漫画

日新除魔→「日課観音」「日課天神」

 などなど、北斎の努力を真摯に追い求めたのではないだろうか。もう一度、世界の美術館にある作品を集めて回顧展を開催して欲しい。

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2008年2月22日 (金)

『狩野永徳展』回顧

 京都国立博物館『狩野永徳展』へ。それも初日。

 今回は初めての永徳の回顧展。知る限るでは永徳の作品は安土桃山城が焼けて大部分が失われたとされ、残った作品にもいろいろ議論がある。

 永徳と確定できるのは、ごく少数とされているが、今回は比較的おおらかに、回顧展を開いている様子。館内の様子は『日曜美術』、『美の巨人たち』でも放送され、『芸術新潮』11月号で特集を組んでいる。

 やはり今回の狙いは『上杉本 洛中洛外図屏風』。5,6年前、中世の京都、芸能、風俗に結構関心をもったが、そのとき行き当たったのが洛中洛外図屏風。中世から近世の京都の風俗が描かれており、じつに面白い。

 そのなかでも上杉本は、その由来といい、絵の内容といい、数ある洛中洛外図の白眉といわれている。作者は永徳と言われているが、疑問を呈する人もいる。しかし、作者はだれでもこの屏風の価値は微動だにしない。

 この屏風の展示のまえに群がる人は、永徳の屏風だから
見ているのではなく、上杉本の洛中洛外図だから見ているのである。その証拠には、新発見と銘を打って『別冊 太陽 桃山絵画の美』に載せてみせたりした『洛外名所遊楽図屏風』の前にはだれもいない。屏風そのもののレベルが落ちるからだと思う。

 上杉本には今後いつ会えるかもわからないうえ、米沢まで行くのも大変なので、押し競饅頭状態の中、2回ほど鑑賞する。

 もうひとつ、永徳の傑作といえばカタログ・パンフレットの表紙にもなっている『唐獅子図屏風』(宮内庁)。豪放の一言につきる。そのうえ好きな画題なので、見惚れる。ただ、別の見方をすれば粗雑とも言える。

 あと、国宝『檜図屏風』(東京国立博物館)。豪快、陰鬱でややグロテスクな屏風。もとは襖絵。だだ、この絵の作者を永徳とするには議論がある。
 土居義次著『桃山障壁画の鑑賞』(昭和18年)によれば、『唐獅子図屏風』は永徳、『檜図屏風』は疑問ということであり、障壁画の作者の見極めはきわめて難しいとある。

 ちなみに、あの有名な智積院にある長谷川等伯の『楓図』貼付は、土田杏村が等伯筆としたものであり、それまで寺伝では永徳としていた。

 あらためて、帰ってからカタログを見てみると洛中洛外図と金碧大画の差を埋めていくものを研究していく必要があると感じた。

 それは多分、障壁画や屏風の作り方、つまり個人の画家という概念ではなく、工房とか注文とかというものをもっと明らかにしていく、ということではないのか。

 これは、長谷川等伯の変身のプロセスを追求するときも同じではないのかと思う。

 次に平常展を見る。『密教図像の美』という特集では
[平安時代] 理趣経曼荼羅図像(親王院)
[鎌倉時代] ◎別尊雑記(仁和寺) ○胎蔵界外金剛部図像(当館) 四面四臂四足不動図像(当館) 伊舎那天図像(当館)などが展示されていたが、関心を引いたのは「別尊雑記」と「曼荼羅集 巻下」。

 このなかでは、最近改めて西欧の図像学について勉強したので、「別尊雑記」、「曼荼羅集」などの仏教図像集に関心を持つ。

 これも後日、「鳥獣戯画」をサントリー美術館へ見に行ったとき、役に立った。

 次の室の特集『狩野元信とその周辺』では、[室町時代]耕作図屏風 元信印 松下渡唐天神像 元信筆(当館) ◎楼閣山水図 伝元信筆(金地院)四季山水図屏風 <☆車+罔☆>隠印、などが展示されているが、狩野元信の絵の渋さにも引かれるものを感じる。

 また狩野元信の弟、雅楽頭の使用印とされる<☆車+罔☆>隠印のおされた「花鳥図」は秀逸。今後、研究してみる必要がある。

また、別室では『桃山期の大画面』の特集。

[桃山時代]
狩猟図 狩野山楽筆 耕作図 狩野山楽筆(以上当館)
山水図 狩野山楽筆(妙顕寺)を展示。

 一日で永徳は当然として、元信、松栄、探幽、山楽と見たが、従来なら狩野派というだけで心理的に拒否してきたが、とりあえず日本美術史研究の一環として見直そういう気持ちになっている。

 次は絵巻の室となっており、現在中世の絵巻に関心を持っているのでじっくり鑑賞する。

 [室町時代]◎福富草紙(春浦院)◎百鬼夜行絵巻(真珠庵) ◎十二類絵巻 [桃山時代]◎牛図 俵屋宗達筆(頂妙寺)。

 風俗の研究となりそうなのは、「福富草紙」である。

最後に、陶磁器のコーナーで志野のうち「志野織部(志野と織部ではなく織部の一種)」の『蔓草文台鉢』(桃山江戸17C)、「仁阿弥道八」作の煎茶碗を見る。
 「東京の一年、京都の一日」の感あって、博物館をあとにして隣の豊国神社の「おもしろ市」という骨董市に行く。

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2008年2月14日 (木)

王朝の恋 『伊勢物語絵巻』

  最近、和歌と絵画の関係について関心を持たざるを得ない状況となった。
また、かねてから「伊勢物語」の絵画化には興味を持っていたので、出光美術館へ久々に出かける。

 お目当ては勿論、和泉市久保惣記念美術館の重文『伊勢物語絵巻』(鎌倉時代)。
伊勢物語を絵巻形式で絵画化した初例のもの。

今年は久保惣記念美術館に行ってみようかと思ってがなんと出光美術館で展示。今回の後期に展示されているのは、向って左に富士山がある場面。断簡であり、詞書は展示されていない。
 絵の落剥が激しい。やまと絵のつくり絵で、引目鉤鼻、吹抜屋台の手法を使っている。しかし『源氏物語絵巻』より淡白である。濃彩つくり絵とはいえない。斜め構図である。
 
 表現で特徴は脇役に動物、植物を使って場面の季節感を演出しているらしいが当日の展示ではよく確認できなかった。

 美術館の解説によれば、つくし、カマキリ、バッタ、コウロギ、カタツムリ、青虫、鷽(うそ)イタチ、メジロといるらしい。

 このように、伊勢物語の絵画化も最初の頃は、情景や雰囲気を盛り上げることに努力していたように思われる。

 それが、この展覧会に出ている伝宗達の『伊勢物語図色紙』や、大画面、屏風を経て、より象徴性の高い尾形光琳『燕子花図屏風』となる。
 
 展示されている酒井抱一の「八橋図屏風」は光琳よりもカキツバタに八橋が描いてある分、象徴性が低いが、抱一は八橋を描く必要を感じたのであろう。

 今回の「描かれた伊勢物語」には、画家は岩佐又兵衛、伝宗達、抱一とあり、作品は奈良絵本
、嵯峨本ありで十分に楽しめるものであった。
 

 

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2008年2月11日 (月)

「源頼朝像のモデルは、やっぱり源頼朝像」を読む

 宮島新一山形大学教授が「神護寺」(平成19年淡交社)という本のなかで、「源頼朝像のモデルは、やっぱり源頼朝像」という論文を書いている。

 この論文のポイントは、三幅の肖像画の制作年代の判定である。
 神護寺の画像は、「似絵」のジャンルに含まれる。とすればこの系統同士を比較して年代判定をするのが正しい手続きである。

 ①同年代俗人肖像画との比較の必要性
 ②サイズ~南北朝時代にはこのサイズは少ない
 ③南北朝時代の特徴である「人格が露わになる」ということになっていない。

 宮島教授の判断は頼朝像は後高倉院と北白川院の神護寺の大々的な復興にともなって制作された、としている。

 藤原光能については、「文覚と関係が有り、光能の子の光俊は後高倉院の近臣であった。」という五味文彦教授の説を引いている。また、平知盛については、「その妻は後高倉院を育て、仕えている」という角田文衛氏の説を紹介している。

 方法論的には、宮島教授のいう方法が正統的で正しいように思われる。教授の勧める称名寺の国宝「金沢四将像」(鎌倉時代中期~後期)、和歌山、満願寺、根来寺の「鳥羽天皇像」との前後関係の比較は、やるだけの価値があると思う。

 同じ本のなかにある、久保智康京都国立博物館工芸室長の「山林密教寺院、神護寺の文化財」という論文でも三幅の肖像画について触れており、「神護寺略記」は古文献を詳細に引用し、各堂舎の本尊・什器についての記述も現存寺宝とおおむね合致し撰述姿勢は信頼度が高い、とされている。

 これまた説得力のある指摘である。
 これらの指摘を考えると、もう一度、前後関係を比較しながら三幅の年代の判定の作業をすること。古代、中世の肖像画について「概念」をもう一度見直すこと。

 特に、「似絵」というのはどこか混乱をもたらすとことがある。とくに描く目的がよくわからない。はっきりとした説明も不足している。

 そしてもう一度「神護寺略記」に登場する、後白河法皇、源頼朝、平重盛、藤原光能、平業房とその関係者(宮島教授のいう平知盛はちょっとよくわからないが)を研究する必要があるのではないかと思う。

 とりあえず、光能の子の藤原光俊と平業房、その妻高階栄子の興味をひかれる。

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2008年1月19日 (土)

「松林図屏風」率直な感想

東京国立博物館で特別展を見たあと、考古学展示室から本館にはいり、階段を昇り、国宝室にいたる。
 長谷川等伯の「松林図屏風」、久々に対面である。
 以前、出光美術館で東京国立博物館から借り出して展示したのを見に行った。

 長谷川等伯は好きで、京都の智積院、本法寺、金地院、さらには石川県の七尾美術館へ「長谷川等伯展」を見に行ったこともある。

 しかし「松林図屏風」は、その良さがあまりよくわからない。というか、現代の芸術観からみれば最高傑作である。たしかに、解説を読めば、良さはそのとおりと思う。しかし、それは、現代から見てという
限定がつくが。

 では、等伯がこの絵を描いた時期はよくわからないが、その時代ではどうだったのか。
 試しに描いた下書き、習作ではなっかたのか。あの時代に、等伯はこのような画風の作品を連作しているのか、他の画家はどうなのか。

 どうしても、作品が孤立しているというか。違和感があるというか、 なにかしっくりしないものを感じる。

 すべてを奇跡や独創にしていいのか。
 もっとも、当方は長谷川等伯は、彩色画から入ってしまったので、等伯の水墨画のギャップが埋められないかもしれない。

 しかし、智積院の楓図だって等伯の絵になったのは昭和に入ってからだった。 
 
 松林図のことは、あまり書きたくなかったが、新日曜美術館でこの絵のことが放映されたのを見いて、檀ふみの素直な発言を聞いて、こちらも素直な意見をいってもよいかなと思った。

 出光で見たときのほうが、屏風らしく親しみやすかった。国宝室に収まってしまうと、たかが屏風という感じが逆にしないでもない。 等伯も苦笑しているかもしれない。

 等伯といえば、勅使河原宏の『利休』に等伯がちょっこと出てくるが意味合いがよくわからなかった。こんな時代ですよ、大徳寺ですよということかな。 赤瀬川原平の本を覗いてみる必要がある。
 この頃は永徳はまだ生きていたが、利休と永徳とはどんな関係だったのか急に興味がわいてきた。

 去年の秋に京都国立博物館で「狩野永徳展」を見たがが、安土城が焼けずに、永徳がもう少し長生きしたら、大変なことになっていたのではないか。もっとも上杉本「洛中洛外図屏風」だけでも、国宝室にふさわしい。

これも率直な感想。

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2008年1月15日 (火)

伝頼朝像周辺

 米倉説が正しとするといままで今まで頼朝だったのは何故か。直接的な理由は「神護寺略記」に基ずくものであろうが、明治時代に確定したものとすれば、その時代背景もあるのではないか。
 足利尊氏が逆賊とされていた時代に、足利直義とするより、源頼朝としたほうが都合がよかったのかもしれない。

 おかげで、こちらも幼い時から、頼朝といえば「伝頼朝像」を思い出す。それにしては義経像が貧弱だが、政敵になったのでしかたがないとか、とかは考えていた。
 
 いま伝頼朝像はどうなっているのか、と思って小、中、高の教科書を見てみると、概ね「伝頼朝像」となり、鎌倉時代の冒頭に載っている。イメージの力は強いので、今後も伝播していくことであろう。

 面白いのは2001年発行の「日本の歴史 第09巻 頼朝の天下草創」(講談社)で カバーのしたの表紙は「伝頼朝像」が単色で刷られ、口絵のもカラーで採用され、解説には『「貴種」の面影を伝える頼朝像」とある。

 体験でいえば、尾道の浄土寺で特別拝観して、「足利尊氏像」を見たときは、薄暗いなかで、どこかで見たような絵だと感じた。
 最近は、木更津の神社で頼朝『お手植えの蘇鉄』というのを見たが、そのステンレスの
解説版には「頼朝像」が写真で刷り込まれていた。
 このように、全国的に「伝頼朝像」が広まっているのでこれを修正するのは大変でだろう。

 ただ、「伝頼朝像」は直義かといえば、反論もあるらしく辻惟雄『日本美術の歴史』によれれば、「13世紀を下るもではない」とあり、「わたしは誰?」状態は今後も続くようである。
 

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2008年1月11日 (金)

伝藤原光能像の周辺

 平安時代には、肖像画は作られなかった。これは、肖像画が呪詛の対象となるのを恐れたためだともいわれている。では何故、伝藤原光能のような肖像画が描かれるようになったのか。

その理由について辻惟雄『日本美術の歴史』では、「しかし院政期に入って肖像制作は活発化した。その理由はよくわからないにせよ、人間への関心の強まった時代の動向と無関係ではあるまい。」となっている。これが現在の通説であろう。

 ところで面白いのは、応保2年(1162)6月に源資賢らの院近臣が、賀茂社で天皇の姿を絵に描いて呪詛をしたことが発覚したということがあった。
 
 院政期でも、肖像画は特別な霊的な力を持っているものと考えられたのだはないか。また、呪詛の対象になりうるものであったのではないか。

 従来説にしろ米倉説にしろ、神護寺に納められたわけであるから、肖像画に特別な霊的な力のあることを信じていたものであろう。
 しかし、それよりも何故神護寺なのか。神護寺とはなにかのほうがはるかに強い興味をひく。  

 過日、同じ国宝室で『観楓図屏風』 狩野秀頼筆(室町時代)を見たが。遠く雲間に神護寺の伽藍や,雪の愛宕社が描かれている。鈴木 広之 「絵は語る (8) 高雄観楓図屏風-狩野秀頼筆 記憶のかたち」のなかでも、神護寺の存在について解釈をされている。

 和気清麻呂、空海からはじまる神護寺はちょっと謎を秘めた寺である。

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